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河野浦と海運

 


 

 

河野浦の地理的条件
  旧河野村は越前海岸の南端、敦賀湾のほぼ入口に位置する。山々が海に迫り、わずかに残された平地には、家々が帯のように密集して形成している。現在の国道305号線のような海岸沿いの道路もかってはなく、「北前船主の館右近家」の建つ河野浦をはじめ、現在、旧河野村に含まれる多くの集落は海に向かって開かれ、海とともに生きてきた”海村”であった。

中世の河野浦
  河野浦の古い時期の様子は詳らかでないが、その頃は漁業を中心とする浦であったと思われる。中世に入り、15世紀頃にもなると、河野浦や隣接する今泉浦には敦賀湊から船が着岸するようになる。この両浦から、いわゆる西街道を利用して山を越えれば、当時の越前の中心地である府中(現在の武生市)は間近であった。こうして、物資の輸送は勿論のこと、京の公家冷泉為広卿をはじめ、旅行者の往来にも河野・今泉の両浦は利用された。

  戦国期には、河野浦や今泉浦の船は、戦国大名朝倉氏から御用を勤める代わりに課税免除の特権が与えられ、三国~敦賀間等の物資輸送にも従事していたようである。なお、敦賀湊には中世末に河野屋座と呼ばれる船座があり、川船座とともに敦賀湊を拠点に廻船業に携わっており、河野浦や今泉浦での物資運送の営業権を有していることから、この両浦とも深い関係があったものと思われる。

江戸時代の河野浦
  江戸時代における日本海海運は、今日では”北前船”という言葉でよく代表されるが、この北前船が目立って活躍するのは江戸時代の半ばを過ぎてからであった。それまでの間、日本海を行き交う廻船の多くは、幕府や諸藩の年貢米を上方に輸送する廻船と、いち早く松前蝦夷地(現在の北海道)に進出した近江商人が、その地で獲れた海産物を敦賀、小浜を中心とする地域に輸送するために共同で雇った”荷所船”と呼ばれる廻船であった。敦賀湾のほぼ入口に位置するという地理的条件から、河野浦の廻船の多くは近江商人の”荷所船”として活躍していた。江戸時代の中頃、享保14年(1729)の資料によれば、かってはこの浦で36隻もの廻船があったという。しかし、この年は4隻の廻船が一度に難破したため年貢納入にも困り果てたという。”板子一枚下は地獄”とは船乗りの間ではよく言われた言葉であるが、この浦でも父子ともに海難に逢って断絶した家もあり、廻船による商売の危険性をまざまざと見せつけるものであった。

北前船の時代へ
  江戸時代も半ばを過ぎ、商品流通の発展にともない、日本海海運は飛躍的に発展を迎えることになる。18世紀の半ば、宝暦から天明期になると、松前蝦夷地における近江商人の地位が低下し、荷所船”として運賃積を行っていた廻船も買積み商いの比率を高めるようになる。松前蝦夷地の鰊は肥料としての需要が拡大し、商品価格の地域差を利用して、北前船の買積み商いは徐々に活況を呈することになる。近江商人の”荷所船”として日本海を駆け巡っていた右近権左衛門家や中村三郎右衛門(三之丞)家をはじめ、船主達の多くはこのチャンスを生かして大海原に進出し、幕末から明治前期にかけて日本海沿岸有数の北前船主が輩出したのである。

              

 

右近権左衛門家の歴史

 


右近家の船出
   「北前船主の館」の主である右近権左衛門家のルーツをたどっていくと、江戸時代前期に溯る。今から300年以上前の延宝8年(1680)、河野浦の金相寺3代住職漸祐は4代目となる専祐の弟を寺の養女と縁組させ、田畑山林とともに船1隻を与えて分家させた。幕末から明治時代にかけて日本海にその名を馳せた右近権左衛門家もその”船出”はささやかなものであった。

 

荷所船としての活躍
   代々の権左衛門の船は、他の河野浦の者と同様に、近江商人の”荷所船”として松前蝦夷地と敦賀・小浜等を結ぶ日本海を往復していたのであろう。近江商人の西川家に残されいる資料によれば、18世紀の前半、元文から宝暦期にかけて、鰊荷所を積んでいた船の中に右近権左衛門の名を見いだすことができる。

   しかし、18世紀も半ばを過ぎ、宝暦から天明期のあたりには、日本海海運を取り巻く流通構造が変化をきたし、”荷所船”として従事していた右近家の廻船にもその影響が現れてきている。天明から寛政期の右近家の経営記録「万年店おろし帳」によれば、右近家の廻船は近江商人の”荷所船”として活動するかたわら、自ら商品を仕入れ販売する、いわゆる買積み商いも行うようになっている。ただし、それは常に危険との隣合わせであり、商品の価格変動による損益のほか、寛政12年(1800)のように、江差沖で右近家の弁天丸が破船し、船を失うとともに積荷の商品280両余の損害を蒙ることもあった。こうした荒波にもまれながらも、右近家はたくましく時代を生き抜いて、飛躍の機をうかがってきたのである。そして、その機は9代目権左衛門の時代に訪れた。

 

右近権左衛門-北前船主としての活躍


   9代目右近権左衛門は、文化13年(1816)に生まれた。彼は若い頃自ら右近家の廻船である小新造や八幡丸に船頭として乗り込み、全国各地の情報を収集するとともに廻船経営のノウハウを身をもって体験した。この経験が、商機を見逃さず、幕末から明治前期にかけての北前船の最盛期を生き抜き、右近権左衛門家を日本海沿岸有数の北前船主に仕立て上げることになった。

   彼は従来から右近家が所有していた廻船に加え、同郷で姻戚関係にある中村三郎右衛門家や商取引のあった大坂の問屋商人和泉屋や近江屋などと廻船を共同経営する積極経営を展開する。廻船の中には海難に逢うこともあったが、彼はそれにひるむことなく、次々と廻船を増やしていき、そこで得られた収益も飛躍的に拡大した。時代はまさに”ハイリスク・ハイリターン”であった。先代の8代目権左衛門の亡くなった嘉永6年(1853)時点で右近家所有廻船は3隻、利益が約1,600両だったのに対して、10年後の文久3年(1863)には廻船数11隻、利益は12,000両余に達している。

   また、各廻船の船頭には信頼の置ける者が求められたが、9代目権左衛門は多くの男子に恵まれ、それぞれが船頭として”右近の船”を支えた。かくして、幕末から明治初期にかけての”一航海千両”と言われる時代の追風を受けながら、莫大な利益を右近家は手中にしたのである。

 

10代目権左衛門-近代船主への道
   10代目権左衛門は嘉永5年(1852)に生まれ、父9代目権左衛門同様、弟達とともに右近家の廻船に船頭として乗り込み、商才を磨いた。しかし彼が生涯の大半を生きた明治という時代は、北前船が空前の活況からかげりを見せていく時代であった。明治政府の近代化政索により、文明開化の象徴ともいえる蒸気船が三菱や日本郵船といった大資本の手によって日本海沿岸にも運航されるようになった。

   10代目権左衛門も父同様に積極的に北前船経営を行い、明治12年(1879)には、右近家の廻船17隻の積石数の合計は18,000石を超えており、それは文字どおり”千石船”の大船団であった。時代は電信などの情報の近代化が進み、商品価格の地域差も次第に縮まりつつあった。買積み商いによる廻船経営は先にの見通しがないことを悟った10代目権左衛門は、明治20年代半ばには自ら所有廻船を西洋型帆船、更には蒸気船に切り替え、大量の商品を運びその運賃を稼ぐ経営に転換した。日露戦争直後の右近家は蒸気船7隻を所有し、その総トン数は2万トン余に達しており、名実ともに近代船主に脱皮している。

   一方で10代目権左衛門は、加賀、越中(現在の石川県、富山県)などの北陸地方の有力北前船主とともに北陸親議会や日本海運業同盟会、日本海上保険会社などの設立に大きな役割を果たし、海運業の同業者全体の保護育成に努めた。更には当時先取りの機運にあふれいてた北海道などへ目を向け、倉庫を建設したり、炭坑や農場を経営するなど、広い視野による多角経営で活躍を続けて行くことになる。

 

右近家の持船の推移

 

旧河野村と右近権左衛門
   このようにして日本海を縦横に活躍した右近権左衛門家は、地元旧河野村に対して社会資本の充実等の面で大きな役割を果たした一人でもあった。

   たとえば、明治初年には、同郷の有志とともに、武生から春日野を経て河野浦に至る春日野新道を開削し、この道路と河野ー敦賀間の海路とを利用する海陸運輸会社を設立して、旧河野村を経由する交通路の繁栄を試みている。また、昭和10年(1935)に山腹に建設した西洋館に使用するために引いた”宮の谷水道”を村民の利用に供したことなどもあげられよう。このほか、学校の校舎建築や神社の建て替えの際には、常に多額寄付者として名を連ねていた。これらは、身を挺して船を守ってくれている乗組員を地元旧河野村から多く雇用していることから、廻船経営などで得た利益の一部を地元に還元するという意味合いも含まれてたのであろう。

   そして近年、現当主は「北前船の歴史むら」事業に賛同し、本宅を村の管理に委ねて「北前船主の館右近家」として一般に公開し、北前船によってもたらされた多くの文化遺産の保存とその活用に寄与している。

 

南越前町観光マップ

福井県観光情報ホームページ

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■所在地

 

〒 915-111

福井県南条郡南越前町河野2-15

北前船主の館・右近家

℡.0778-48-2196

 

■利用案内

開館時間

 AM9:00 ~ PM4:00
 
休館日

 毎週水曜日
 年末・年始(12月29日 ~ 1月3日)
 
観覧料

 大人(一般・大学・高校) 500円

 小人(小中学校)           300円

 *団体は20人以上

南越前町